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「しゃべるのを手放せないのは」 記 高知県佐喜浜小学校 竹村和男 校長
準備等も含めて、日常の授業ではとても準備不足となるのではないかと思ってしまいました。「子どもたち主体」と世間では強く言われていますが、本当にそうなのか気になります。先生主導と思われても、それが楽しい、子どもたちが楽しい、見ている人まで楽しいということの方が私は大切ではないのかと感じます。
どの先生方もがんばってらっしゃいます。
それが児童生徒にとって一番なので、時に教え込みも大切だと思います。
これは、本校のセルフレッスン公開授業後にご協力いただいたアンケートの一つです。
私は西留式スタンダードの推奨者であるが、この先生の話にも納得している。先生主導の授業が適している学習もあるし、先生の伝える力を鍛える場として、教師主導の一斉授業があってもよい。でもこの授業形態の弊害を知って行っているか、知らないで行っているか、又、それを気にせずに無視して行っているかで、子どもに最適な学習を与えているか否かが決まってくる。
教師主導型の追求を否定しているわけではないが、この型には危険が潜んでいる。著名な教育学者が述べている弊害を3つあげるとすると、以下の点だろう。
1 思考力が身につかない。
2 授業にこぼれてしまう児童生徒が出てくる。
3 先生によって教え方が違って、子どもが戸惑う。
このように言われていても、今なお教師主導型が主流である訳を私なりに考えてみた。ただ1つだけ述べよと言われたら、こう答えたい。それは、「自己顕示欲に覆われた自己アピール」である。
みなさんは違うかもしれないが、私はそうであった。私は自分が話す時に、こちらを向いて聞いてくれる子どもたちが目の前に多くいるということは、本当に気持ちが良かった。そしてこれが子どものためにもなるのである。まさに一石二鳥・一挙両得である。この気持ちを味わいたいがためにこの仕事についたと言ってもよいくらいである。もちろん、利他の心を持ち、子どもの成長が見たい、それに貢献したいということで、教師を選んだ方も多くいるだろうし、公務員という安定が一番の魅力であったという方も多くいると思う。
でも私のように、自己顕示欲が選択理由の中心を占めていた方もいるのではないか。人の行動の基本は、得をすること、それも自分にとって得をすること、言い換えれば欲望を満たす事であると言われる。その欲望が、自分に向かう事が多くなるとわがままで独善的に見え、他者貢献に向かうと賢人になる。
しゃべりまくる授業は、自己顕示欲中心・自己満足・独善的となってはいないだろうか。新学習指導要領となり、脳科学や教育学、心理学がここまで進んできた今、私たちは自分の授業や学級経営を冷静に分析しなければならない時期にきているのではないか。子ども主体・全員参加型の授業スタイルに挑戦している指導者も、心底には、自分が教えたい、目立ちたいという気持ちを持っていると思う。でも自分を強く押し出した教え方では、子どもの力が伸びない、そして主体的に学び、生きる子どもを育てることができない、ということで、他者理解、貢献にシフトした先生方でありはしないか。教師主導の一斉授業の方が子どもの力を伸ばすと思える場合は、もちろんそれを実施し、他方が良い、またそうでないと時間が足りなくなるという場合は、それも可であろう。しかしそれだけの授業でよいのかどうかは、常に振り返って考えてほしい。
私の学校では、先生方に統一した学びとして、西留式スタンダード授業を行っていただいているが、教師主導の一斉指導やドリル学習の時間も、各自の裁量で行ってもらっている。おおまかに分けると、子どもたちは、主体的な学びで思考力を伸ばし、受動的な学びで知識理解・処理能力向上に努めているように感じる。要は、スタンダード授業を核とした、多種多様な学びのバランスである。
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