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  • 執筆者の写真西留安雄

授業備品 NO.194(2022.9.10)子どもの力を信じよう

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記 : 佐喜浜小 竹村校長

 最近友人に紹介されて読んだ本に「天才を殺す凡人」というのがある。題名はショッキングであるが、書かれている内容には、うなずける所が多々あった。筆者北野唯我氏によると、天才とは創造力に長けた人であり、それは周囲からの反発力でおおよそ判断できるというのである。もちろん社会のルールから逸脱した行為や生命を脅かす行為を容認しているわけではない。「あいつ、ちょっと変わってるなあ」とか「あいつおもろいなあ」というような感じを抱かせる人というイメージであろうか。そしてその世俗社会に紛れ込んで暮らしている天才たちは、そうではない多数の凡人(常識人)によって、その才能の開花を抑制されている。しかし天才の要素を備えている彼らは、大多数の凡人に常に振り向いてもらおうという願いを持っている、というような趣旨の内容であった。私はこれを、学校教育に当てはめて、考えてみた。 下の図を見ていただきたい。

 「子どもは遊びの天才」「子どもは宇宙人」「9才までの子どもはみんな発明家」など、子どもたちの柔軟な発想力や創造性を認めた言葉は世の中に多くある。確かに幼稚園・保育児などの行動を見ていると、私たち大人が思いもつかないような遊びを作ったり、ルールを工夫したりしている様子をよく見かける。子どもは、常識にとらわれない発想ができる。それは世の中をよく知らないからこそできる特権みたいなものである。

 子どもたちは、今まで私たち大人や先人たちが長年の間に苦労して見つけてきたエビデンスや経験から導き出された課題解決法などを、短時間で効率よく学び考える機会を与えてもらっている。ということは、小学校を卒業するくらいになると、社会で普通に働いている大人と遜色ないくらいの情報は、もう身に付けていると考えてもいいのではないかと思う。その時大人がそれを認めずに、それまで続けてきた威圧的な態度で子どもを封じ込めたり従わせたりしようとすると、その矛盾に気がついた子どもは、反抗的になったり閉じこもったりすると、私は考えている。

 私たち教員には、上記の秀才型が多いのではないかと勝手に予想している。私も秀才か凡人かはわからないが、天才ではない。でも、子どもが教師の顔色をうかがい、機嫌を取りながら授業を受けているか、自分たちの考えを気持ちよく出し合って意欲的に学習に向かっているかの見極めや判断は、割とできる方ではないかとうぬぼれている。先生に好かれよう、大人に認められよう、ほめられよう、という気持ちは間違ってはいないし、それが能力向上へのきっかけになれば大切なことだと思うが、それによって、個々の天才的な創造性や研究心にストップをかけているとすれば、問題である。得てしてこれまでの日本の一斉知識伝達型の学校教育は、この負の側面を有していた。先生の話を聞くのに力を使い果たしているからである。それを変えていこう、というのが新学習指導要領であるし、令和の日本型教育であろう。

 教えることは、子どもが主体的に学ぶきっかけにとどめよう。子どもには学び方を教えよう、学ぶ楽しさを感じさせよう。目の前にいる子どもたちは、もうすでにあなた自身を超えている部分をたくさん持つ存在である。あとから生まれてくるということは、そういうアドバンテージを持っている。これは、ずっとずっと昔から繰り返された常である。

私たち教育者は、プライドは保ちながらも、その事実はしっかりと認識し、ホリエモンの言うように「変わる」「ゆずる」「ささえる」「ひかえる」を繰り返しながら、若い人たちや子どもたちの力を伸ばし、幸せへの切符を与え続けていかなければならない。教師とはそういう仕事ではなかろうか。だからこそ、学校教育において、この思いを授業改善に組み入れて、具体的に示したスタンダード学習が今後も教育の大きな潮流になり続けると、私は確信できるのである。


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