第1章 「観」の転換
1「観」の転換 (授業備品NO225)
「自ら学ぶ」をねらいとした学習指導要領
・平成29年 主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング(学び方)
・平成20年 主体的に学習に取り組む態度、思考力・判断力・表現力を育む
・平成10年 自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断する子の育成
・平成元年 自ら意欲の育成や思考力・判断力の育成を図る
・令和?年ころ「個別最適な学習」と「協働的な学び」等の「学び方」を身に付ける内容が予想される
学習指導要領を読み込むと「自ら学び考え判断する力(自学力)」が、30年以上前から掲載されていることが分かる。過去から「自主的な学習力」の推進が学習指導要領に記載されてきた。今次の学習指導要領から、「学び方の育成」へと変わりつつある。次期学習指導要領は、中央教育審議会ワーキンググループの会議を読み解くと、明らかに海外で行われている「学び方(アクティブ・ラーニング、イエナプラン)」等の個別最適な学習や協働的な学びへと移行すると思う。
(1) つらい思いをしている子がいないか。
いまだに教師主導の授業が行われ、子供たちを苦しめている授業を見る。目の前の子供たちが楽しそうにしていればいい。しかし、つらい思いをしている子がいる。ぜひ確かめて欲しい。改めてこのような授業が行われている背景は「なぜか」を考えて見た。最も課題と感じたことは、教師の「観」が変わらないことだ。授業観、学力観、子供観等の「観」の転換が出来ていない。
原因は、教師自身が自らの経験知に縛られ、子供たちに柔軟に対応できていないからだ。長年、一斉型の授業しか見たことがない。主に教科書の内容を教えることの受験型の授業が当たり前と思い込んでいる。学習指導要領は、「自ら学ぶ」「アクティブ・ラーニング」等への転換を求めてきているが、そうした考えに沿う授業をやったことがないと思われる。
(2) 過去の授業スタイル
①知識・技能を中心とした内容を形式的に説明。教師が発問し、分かっている子が挙手をする。発問と断片的な応答。教師が応答の内容を板書し、解説をする一斉授業。
②( )の中の内容を問う虫食いのワークシートや板書。
③展開内容を知らせない、見通しを立てない等の教師主導の一斉授業。
④記述内容の見える化がない。グループ授業がなく、全体での学習内容の構造化を図っていない授業。
⑤子供の声が聞こえない。教師の声が中心の解説型一斉授業。
⑥思考力や記述力を育てようとしていない授業。
⑦分かる子が授業の中心で、その子の考えついた発言を板書する。
⑧挙手・氏名・発表を中心にして、教科書の内容を教える授業。
⑨全員参加型授業ではないため、学習が面白くない子がいる。寝る、違うことをする子供がいる。
➉座学の授業で、子供が受け身の授業。
10の視点で授業を観よう。かつての授業観から、下記の令和の型の授業改革へと歩むことの重要性を理解していただきたい。
(3) 解決方法は、「学習スタンダード」「アクティブ・ラーニング」
「授業は生もの」と感じるときがある。それは、子供たち全員が授業に参加し、能動的に取り組む授業の時だ。そのために「学習スタンダード」を開発した。それは、全教科、全教師が、問題解決的な授業の一定の進め方を校内で共通化する方法だ。この学習スタンダードを進めていく当初は、ある程度の「型」を学ぶことになる。だが、やがて教師や子供の熟練度に応じて進化する形式へと進む。
アクティブ・ラーニングは学習指導要領にも2012年の頃から掲載が呼びかけられ、現在の学習指導要領となった。前述した教師の一方的な講義形式型の授業と異なり、子供たちの能動的な動きがある授業だ。アクティブ・ラーニングスタイル授業の延長線上にあるのが、「個別最適な学習」である。個別最適な学習の個別とは、一人一人が学習を自分の学び方で行うことと理解している。個性とは、独創的な発想を個人個人がもつ。個人とは、個人として確立され、それが全体学習へとつながることだと思う。
学びのスタイルが定着すると、やがては子供たち全員が「自らの考えを説明できる」ことに行き着く。学習指導要領の「自ら学ぶ」「学び方を身に付ける」等のねらいに沿うことにもなる。
2 とにかく授業を変えよう (授業備品NO188)
全国学力学習状況調査の結果が出た。訪問時に手ごたえのあった学校は、やはり良い結果が出た。「探求学習」の差であった。授業が変われば、結果はついてくる。とにかく授業を変えよう。
(1) 社会の変化に学校がついていけるか
社会の変化が著しい。ところで社会の変化とは何だろう。私なりに解釈してみた。①人口減少が続く日本 ②デジタル化の加速 ③仮想と現実の境目が分からなくなる ④コロナ化で生み出された新たな学校文化等であろう。
こうした社会の変化の中での生きる力は、①早くから自分のことを客観的に見る力 ②自分の課題を解決していく力 ③異なる背景を持つ人と対話できる力 ④世界との競争に参加できる力等が考えられる。社会の変化にこうした力をつけることが日々の授業改革で求められていると思う。
(2) 授業の現実
社会の変化に対応した教育・授業が求められているが、いまだに教師主体で教科書の内容を教える授業を見る。学習指導要領がいくら変わっても、基礎基本の習得をさせる授業が必要、授業規律が重要、教師が教えるのが授業と思い込んでいて、なかなか授業を変えたがらない教師の授業だ。
なぜそうした思い込みの教師がいるのか、日本の授業がなぜ変わらないかと考えたとき、授業者や教育のこれまでの在り方に行き着いた。それは、教師側の論理で「教育をする」「授業をする」がとても強いことだ。誰しも、子供が主体的な授業が重要という。だが、教育や授業の主人公である、「子供」の側から授業論や考え方を重視することが反映されていないと思う。
また、教科の見方・考え方の育成が重要と考え、それに特化した授業も見る。よく見ると子供主体の授業は、どこかにいき、教師が目立つ授業となっている。授業で知識を豊富にする、進学に向けた授業が大事だというが、教育の究極の目標である「人づくり」は、そうした授業の中には見えない。
(3) 変わらない変われない教師
訪問校では、ベテラン教師も「授業スタンダード」を理解し、即座に具体的な方法を学ばれた方もいる。初めていく訪問校では、ベテラン教師から、主体的な学びや対話的な学びの授業を行っているとの回答をいただく。だが、よく見ると従来の日本型教育(教師主体・一斉指導・一問一答の授業・教師が没頭して身に付けた知識を教えている)から抜けだせない授業を見る。
教師の発問や指示、説明の繰り返し、子供たちを受け身にさせたまま授業を主導しているかぎり、子供が主体的な学びの実現は出来ない。また、従来型授業の方法の一つである「挙手・指名・発表」の手法で教師に向かって一部の子供だけ話す旧態依然とした授業形態では、根拠をもって話す、相手への確かな説明をする等、「対話的な学び」や「協働的な学び」はほど遠い。子供同士が対話相手への受容や共感がない、安心して話せない、そうした中で、子供同士の対話を求めても「対話的な学び」は成立しない。このことが子供の成長を止めている。気付いているだろうか。とにかく授業を変えよう。そのためには、学習スタンダードを教師も子供も学ぶしかない。
(4) 自立を促す学校
人間以外の動植物は、親がわが子の自立の時期になると子供を突き放すという。これに習えば、私たち教師もおのずと「教える」から、「自立を促す」教育への転換が見えてくる。
授業や教育を難しく捉えてはならない。教師側から子供に知識や思考力を一方的に身に付けさせる授業は、人としての生き方は身につかないので、今次の学習指導要領の改訂が行われたと思う。進学を考え、学び、その時には目的を成就しても、子ども自身に自立心がないと変化ある社会の中では生きていくことは難しい。それには、学校を「子供の自立を促す学校」ととらえるとよい。そう考えれば、教師の授業観も変わり、教師自身の立つ位置も変わってくると思う。
(5) 子供が「主語」の徹底
学習指導要領は、とりわけ教師主体の授業から子供が主体の授業への転換を促している。この子供が主体の授業は多くの学校の研究テーマになっている。だが、授業を参観しても、どこが「子供が主体」なのか分からない授業がある。研究協議会も実態とはかけ離れた、主体的・対話的で深い学びが議論される。「がまん」の時間となる。子供が主語の主体的授業を行っている教師は、なおさらのことだ。教師の授業と研究主題がなぜかけ離れているかを考えてみた。
それは、教師が①教科の世界に没頭している ②答え探しにいっている ③子供の学力の差があるのを知っているが公には出さない ④分かる子と教師の協働授業となっている等が原因であろう。こうしたことの解決が求められる。
そのためには、授業の在り方や子供の学習の進度差の捉え方を考える。具体的には、子供が「主語」の授業を行っている学校に学ぶ。学習スタンダードの徹底、学びの進度に差がある子を大事にする(少人数での対話、分かる子が助ける)等、授業自体の在り方を検討する必要があると思う。
(6) まずは、「活動あって学びなし」でもよい
かつて総合的な学習活動の中で、「活動あって学びなし」の議論があった。この議論を聞くたびに、とにかく活動している時間があることだけでも素晴らしいと自分に言い聞かせてきた。それは、光る言葉を発表する子と教師の対話の授業を見て,それを良しとする風潮があったからだ。
学習の進度の差が大きい子供にとっては、お客さん状態が続く。それも一日中、教師の話を聞くことの授業では、子供が逃げ出したくなるのは当然のことだ。だからこそ対話型の話し合いの活動を大事にすることが分かる。
単なる発表し合う学習でもよい。グループ学習が多くあってよい。ワールドカフェがあってもよい。プレゼンテーションやディベートのような新たな授業の型を変えてもよい。とにかくアクティブな活動の多い学習がよい。こうした活動がたくさん行われることにより、従来型の授業(教師の話を聞く、数人が発表をする)が解決できるのは間違いない。たくさんの活動を続けていけば、主体的・対話的で深い学びも自然に始まるはずだ。
(7) 協働的な学び
令和の日本型教育の中で「協働的な学び」がクローズアップされている。特に新しいこととは思わない。対話的で深い学びのことをいっていると思う。私たちが大事にしてきた、自分の考えを付箋に出し、友達の付箋に新たな事実に気付く。そして考えを新たに修正していく。小グループで考察したり、全体で確認したりするなどこれまでやっていたことを大事にすればよい。私たちが学習課題を学びの中で3回も読んでいるのは、いつも課題解決に立ち向かっているからだ。こうした基本的なことを大事にしよう。それが協働的な学びといえるからだ。
(8) 最終的には教科の見方・考え方へ
子供が学び方のプロセスを身に付けて学んでいけばよいが、教科の見方・考え方のみに走る教師がいることが残念だ。旧学習指導要領と同じだ。研究校では、この各教科の「見方・考え方」の研究だけに走る学校がある。だから子供たちに授業の満足感がない。学び方のスタンダードが重要であることを痛感していただきたい。
学び方のスタンダードで身に付けたアクティブな活動やアウトップットが主体の授業になると、最終的には教科の「見方・考え方」の育成に向かう。各教科には、つけるべき授業の姿がある。それが各教科等固有の「見方・考え方」である。最終的にはそこに到達するように授業を組み立てていく。
3 ZOOMから見えてきた授業課題 (授業備品NO162)
全国学力学習状況調査の自校採点の速報を複数の学校からいただいた。かなり伸びている学校には、大きな特徴がある。それは、Zoomで見た全国の学校の授業と似ている。Zoomでは、教室の後ろから写すため、子供たちの姿勢や教師の立つ位置がよくわかる。「これでは子供が退屈するだろうな」「いくらしゃんとしなさいと言っても効き目はないだろうな」と思うことがある。一方、これは良いと思う授業にも特徴がある。子供が教師の話を聞く機会が少なく、どんどん主体的に作業をしていく授業だ。ZOOMから見えてきた授業課題を整理する。
(1) 作業を多く!
「子供が落ち着かない」「話を聞く姿勢ができていない」。このことは、教師側から見ればそうだが、反対に子供の側から見たら当てはまるだろうか。「先生が長くしゃべっている」「やたらと指示が多く教師タイムが続く」。解決するのは教師が変わるしかない。「話は短く」「子供が作業をどんどん進めていく」ことを目指すとよい。「何回も何回も教師が指示をする」のではなく、問題解決的な学習の手順に沿って子供を信じて授業を任せるとよい。まず、自らの授業ビデオを見て子供の様子を見られるとよい。
(2) 「聞く・話す・書く・読む」のリズムで
授業にはリズムが必要だ。1でも述べたが、教師の話を聞くだけでは、子供の思考が止まる。何回も何回も教師の話を聞いたら、子供は授業から離れていく。そこで、リズミカルに聞く・話す・書く・読む・タッチのサイクルを心がける。このサイクルがうまく回れば、授業展開を子供が主体的に行うと思う。なお、聞くは、子供の仲間の声を聞くことで、教師の長々とした話を聞くことではない。タッチは、タブレットを使用することだ。注意することは、タッチのタブレット作業の時間が多すぎてはいけない。
(3) 子供同士の「対話」を多く、教師と子供との対話を少なく
アクティブ・ラーニングの良さは、子供同士が自然体で意見交換ができることだ。問題は見たらペアで「気づき」の意見交換をする。課題を書いたら「見通し」の内容を仲間で話し合う。自力解決ができないときは仲間から聞く。意見交流では「ぶらぶらタイム」「ワールドカフェ」。タブレットで少人数の意見交換。考察では、仲間の考えたことを少人数で構造化を図った上で考察をしていく。子供同士の「対話」がたくさんある授業がよい。
一斉指導や予備校的な指導にみられる限られた子供と話し合うような授業展開では、子供たちには知識・技能も入っていかない。子供たち同士の「対話」を遮り、教師がやたらに前に出る授業は、子供には何も残らない。
(4) 挙手・指名・発表スタイルを少なく
アクティブ・ラーニングは、一斉授業スタイル(日本型)ではなく、子供一人一人が仲間と話し合い、協働的な作業を通して意欲的に学んでいく授業だ。極端な例だが、子供たちは遊びの中で挙手・指名・発表スタイルをとっているだろか。教師同士の会食の中で挙手・指名・発表スタイルがあるだろうか。いずれも自然体の中で行われていることなので挙手・指名・発表スタイルは、そこにはないないと思う。授業もそうでありたい。
教師が挙手を求める方法は、分かる子だけで授業が進む。これまでこうした授業スタイルをとってこなかっただろうか。学校は子供たち全員のためにある。教師からの挙手・指名・発表を少なくして、自然体で子供たちの口から言葉が出るように心がけたい。それには、出来るだけ教師ではなく子供の教科リーダーが進める授業がよいと思う。
(5) 教師は黒板の前から離れる
ZOOMで授業を見ていると教師が黒板の前から離れない様子が映る。一時であればよいが、最後まで黒板の前から離れないでは、教師主体型の授業となる。最近、学校に依頼したことで、授業者は最初の7分くらい、子供の席に席に座り、課題設定までを見守って欲しいと頼んだことがある。子供たちが授業準備をし、教科リーダーが中心となり、ペア学習を多くする中で課題設定までいくことをお願いしている。子供たちは教師を頼らないため、自分たちで授業を進めていこうとする。主体的な授業スタイルとなる。
そのためには、教師が日ごろから学習過程スタンダードに真摯に取り組むことだ。授業研究の時だけ行っても子供たちには学び方が身につかない。いつまでも教師中心の授業が続くと思う。
4 これだけでも (授業備品NO164)
先日、中学生の授業を見る機会があった。指導校の一つだが、ALとはなりきれていなかった。生徒が座りっぱなしで授業に臨んでいた。これでは、教科の期待する学力の数値も期待できないばかりか、教科嫌いをつくってしまうのではないかと危惧をした。ALは、「アクティブな動き」が授業に必要だ。自分が受けてきた授業をコピーして授業を行っていることに気付いて欲しい。
(1) 「座りすぎ」を止める
教師自身が座りっぱなしの授業の大変さを感じたことがあるだろうか。私自身もパソコンに長時間向かっている時があるが体がきつくなる時がある。この「座りすぎ」によるリスクを考えて、立って働く会社も増えているようだ。私もパソコンを立って使用したところ眠気が起きず仕事の効率が上がったと感じた。生徒も同じだろう。
教師が眠っている生徒を起こさなくても、生徒が話を聞いたり考えたりする時は立ち上がらせることは、すぐにでもできることだ。「脳」と「体」をバランスよく働かせることは、ALの趣旨に沿うことだと思う。ぜひ、次回の授業は、「座りすぎ」を止め「立って動く」アクティブな授業を期待したい。
(2) 考察は、「つまり」のこと
「考察」や「深い学び」と言葉が並ぶと、なぜか難しくなる。荒尾第一小学校は、スタンダードの導入時から、考察を平たく言う「つまり」という言葉で練り上げを行ってきた。
①考察1 班の意見の出し合いとカテゴリー分け
班活動の後、各班から出されたホワイトボード(全員が一度は短冊やホワイトボード等に書き、その集合体の考えを別な「短冊・ホワイトボード」に書く。それを黒板に貼り、カテゴリー分けを行う。
②考察2 カテゴリー分けされたものを見て「つまり、課題の〇〇は、・・・」
学習課題を再度言い合い、「つまり」を主語に課題解決を図る。「つまり」が、自分の意見を言う(解釈)ことにつながる。
(3) 班の考えは、全員の考えの出し合いの場
班で集まるのはよいが、分かる生徒が一人で班の総意としてホワイトボード書くことは避けたい。前述したが班に集まったら、お互いの短冊やホワイトボードを見せ合いながら討議をする。討議が終わったら、ホワイトボードに書いたことを全部消す。その上で、新たな班としての考えを書く。その後、「ぶらぶらタイム」や「ワールドカフェ」を行い、自分のノートに新たな情報を書き足していく。その後、黒板にホワイトボードを出し、カテゴリー分けを行い、全体で話し合う。一人の考えをホワイトボードに書く姿を見て、他の生徒の目は輝かない。分からなくても、自分の考えを少しだけでも出す癖をつけておけば、協働的な学びとなる。
(4) 班長が順に発表するより、班の考えの構造化を行う
これまで何回か提案をしてきた。だが、依然として班の考えを班順に発表させる授業がある。これは単発に意見を出すだけで、「つなぐ」発表とはならない。班で十分に意見を出し尽くしたら、班の考えが書いてある短冊(数枚)の構造化を行うとよい。即座に班同士の考えを「つなぐ」ので、分かりやすいと思う。その際、その役を教師が行ってはならない。教科リーダーが行い、全員に「これでよいか」と問えばよい。その後、前述した考察の「つまり」に入り、学級としての課題解釈を行う。学習課題に正対すると思う。
(5) 板書
板書は教師だけのものではない。生徒たちに授業の「ストーリー」が見えなくてはならない。とりわけ、「インクルーシブ教育」が法で明記されている現状から、生徒がこの授業で「つけるべき力」は何か、「どのような手順で授業が進むのか」が分かる板書でありたい。そのためには、授業グッズを全教科で使い、生徒自身が黒板をノートのように使うようにしたい。
◎良い授業は、教師より生徒がたくさん話す。また、座学をさせるのではなく立ち歩き意見を交換させる。諸外国はこのことに気づき、ALを行っている。このことに気付かず、教師主体の教科書の内容を教えたがる教師がまだまだいること危惧をしている。ぜひとも自分の授業を見直していただきたい。
5 夜明け前の授業 (授業備品NO176)
学習スタンダード(〇〇ベーシック)」をまだ取り組んでいないでいない学校の授業を見せていただいた。教師がぐいぐい引っ張る授業が多かった。これまでの教師主体の授業(教師がたくさん話す授業)が常識だったことからそうした授業となっていると思われる。
教科書の内容を「教える」ことは容易で準備もいらない。教師にとって最初に取り組む学習スタンダードは、「面倒」なことかもしれない。だが、学習スタンダードの歩みを少しでも進めると必ず子供は授業の達人になる。まずは、次の11項目を振り返っていただきたい。
(1) 授業の流れの見える化が出来ているか?(授業が始まる前に1時間の流れのグッズが貼ってあるか?)
教師主導の授業は、授業開始前の黒板に何も書いてない。教師が自分のリズムで進めるので書かなくてよいからだ。また、教師自身が板書方法を学んでこなかったことも考えられる。
*策 子供たちは板書に授業の流れが「見える化」(問題解決の流れが授業グッズとして貼ってある)されていると、いつどこで何をするかが分かる。子供たちが協働して学ぶ場面もわかる。学習スタンダードが浸透している学校は、どの学級の板書も流れが書いてある。授業備品136号を参考にしていただきたい。
(2) 教師が授業を一人で仕切っていないか?
子供を前面に出す授業(前学習指導要領は「子供が自ら学ぶ」)を行ってきたはずだが、教師中心の授業がまだ多い。そのため、子供たちは教師から話を「聞く」ことが多く受け身の授業となっている。学校から社会に出たら一人で諸問題を解決していかなければならない。
*策 そのためにも教師ではなく子供たちが主体的に授業を進めるとよい。教科リーダーを置くとよい。
(3) 一部の子(挙手した子)と教師との対話で授業を進めていないか?
私たちの授業スタイルは、教師が発問し、子供が挙手(分かる子)して発表する一斉授業スタイルが常識であった。今でもその授業がある。研究授業ともなると、子供の挙手があると教師は喜んで指名をする。その発言内容が良ければ、参観者も「すばらしい授業」と評価をする。
しかし考えてみよう。挙手が出来ない子供がいることを。分からない、発言ができない子もいるはずだ。そうした子への対応が出来ているだろうか。このことを解決するには、一部の子(挙手した子)と教師だけの対話であってはならない。
*策 挙手をしないで自然体で発言をする。全員が短冊に自分の意見を書きグループ内で発表をする。こうしたことを積み重ねよう。自然と一部の子の挙手・指名・発表が減るはずだ。
(4) 子供がアクティブに動いているか?
教師中心の授業は、子供が「聞く」ことが多い。内容が分かる子はよいが、分からない子にとっては身を置く場がない。やがては、別のことを考える。寝る子も出る。このことを「子供に課題がある」ととらえるような学校文化もあった。
*策 それには、「子供がアクティブに動く授業」に変えることだ。自力解決が出来なければ仲間に聞く。教える。ワールドカフェで仲間のホワイトボード等に自分の考えを書きに行く。授業でこうした子供の動きが考えられる。授業備品175号を参考にされ、子供がアクティブに動く場面を確立していただきたい。
(5) 子供はノートに自分の考え(説明)をしっかり書いているか?
子供がアクティブに動くこととノートは連動している。ノートは、今の自分の考えを書くことだけでなく未来(将来)の自分へのメッセ―を書いておくことになる。そのノートが充実するためには、これまでのノート指導を変える必要がある。
*策 板書を写して書く作業から、自分の考えをたくさん書く、説明書きのノートへ変えるとよい。「書きたくてたまらない子」を多くするには、学校全体で取り組むとよい。
(6) キーワード(教科用語)が飛び交う授業となっているか?
教師と子供の対話で「単語」が飛び交う授業がある。教師は子供が単語でも言ってくれれば、すぐに飛びつく。発表出来ない子供は、その対話を聞いているだけとなる。だから授業内容が理解出来ない。
*策 教科内容が最初から「キーワード(教科用語)」を示してあると、どの子もスムーズに授業に入れる。そのためには、「教師からキーワードを示す」「子供同士でキ-ワードを作成する」「教科リーダーが作成する」「教師が子供の作成したキーワードを補う」等でキーワードを作成するとよい。
(7) 目当てや課題とまとめの一貫性があるか?
学習課題やめあてがあっても、最後のまとめとはつながっていない授業があった。そのため問題解決型授業では、話し合いや対話を重視するあまり、最後のまとめのところで課題の答えとつながらない授業があった。これは、「タイミング」と関係している。「課題やめあてを書いたときに、最後にまとめは書く」という常識があるからだ。
*策 課題やめあてを書いたら、すぐに板書「まとめの1行目(課題やめあての最初の1行目)」をしておけばよい。目当てや課題とまとめの一貫性が出来るはずだ。このことは、教師もそうだが子供たちが授業の流れとして覚えておけばよいことだ。
(8) 学びに一定の「型」があるか?
私たちが教師になったとき、「授業は教師が進めるものだ」という常識をもっていた。先輩からも授業の流れについて教わったことはない。そのため、教科書の内容を教師が「教える」ことに走り、子供に学び方を身に付けさせることは行ってこなかった。子供たちが進めるなど考えもしてこなかったし行ってこなかった。
*策 教師が授業の流れの一定の「型」をつかみ、子供たちもその方法を知ることにより学びの一定の「型」が出来る。学習スタンダードや授業ベーシックがその役割だ。だが、いつまでも「学習スタンダードや授業ベーシックの型」となっていては授業の進化はない。「進化型学習スタンダード」に発展するとよい。
(9) 学習指導案書きに時間をかけすぎていないか?
これまでの研究授業では、学習指導案の作成に時間を費やし、肝心の「授業の流し方やキーワードの作成」がおろそかになっていたことがあった。研究授業の前の夜遅くまで指導案を考えているのを幾度か見てきた。学習指導案を作成すれば、もう授業が成功するような気分になる。これでは授業技術は高まらない。
*策 学習指導案の形はたくさんある。「レ点型」「板書写真型」「従来型」「ピクトグラム型」等がある。大事なことは、学習指導案は7割の力で作成をするとよい。完全な学習指導案にはしないことだ。授業は翌日も同じようにしなくてはならない。また、何回も何回も研究授業を行い「ある一定の成功例」を積み重ねていくことが重要だ。
(10) 教師だけの研究協議会となっていないか?
研究授業を行えば、必ず教師だけの研究協議会(授業検証会)が行われる。教師間の自評、ワークショップ等が行われてきた。ある一定の成果はあった。しかし、このことを何度も積み重ねてきたが果たして授業力が向上しただろうか。教師間で結論付けたことが、子供たちに伝わっただろうか。これまで子供たちが次の授業をどうするかが抜けていたと思う。
*策 指導校では授業終了後、「子供研究協議会」を行っている。子供たちが自己反省した「成果」「課題」「改善策」「参観者の先生からの一言」などを項目にして行っている。子供が主体的な授業を創るためには、子供たち自身が授業評価をする。その際、単なる感想だけの授業評価で終わってはならない。授業備品138号129号等を参考に「子供側から見た授業の評価基準」を作成するとよい。
(11) 授業が社会生活とつながっているか?
これまでの授業は、学校や教室だけで完結していた。そのため、授業や教科書の内容が分かればよいという風土が学校に合った。子供たちの登校渋りもそのようなことが原因の一つかもしれない。
*策 授業内容が分からなければ仲間に聞く。仲間に親切に教える。恥ずかしがらず分からないことは聞く。このことは社会生活と全く同じことだ。授業が社会と連動しているのだ。そのためにも学級力の向上も図るとよい。
授業が社会生活の流れの一つであることに気付いていただきたい。
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